・・「宵の雨」・・


その日は、朝から雨だった。
「ユミちゃん、もう今日は上がっていいよ。こんな雨じゃ、もうだれもこないだろう。」と、言っている最中に、扉が開いた。
水滴を滴らせて、くたびれたレインコートが入ってきた。
薄くなった髪の毛が、ぬれて頭に張り付いている。
その下にある顔は、酔っ払っているのか、真っ赤だった。
見かけない顔だな、と見守っていると、フラフラと左右に大きく傾きながらも、迷わず店の奥に歩いていく。
水を持って追いかけるようについていったユミちゃんが止めるまもなく、ぬれたレインコートのままテーブルに突っ伏してしまった。
小走りにカウンターまで戻ってきたユミちゃんが、
「マスター、日替わりって言ってるようですけど・・・メニューも見ないで」
と、少し首をかしげていた。
しばらく、奥のテーブルを見て、
「あれじゃ、椅子が濡れちゃいますね。どうしましょう。」
「拭けば大丈夫だよ。ありがとう、もうあがっていいよ。」
彼女が、カウンターの裏へ消えると、私はカウンターに置いたカップに湯を注いだ。
酔っ払いは、なにかぼそぼそつぶやいている。
暖まったカップに、ポットを傾け、トレーに乗せて奥へ向かった。近づくにつれ、安い焼酎のにおいが鼻をつつく。
テーブルの上を整え、ミルクポットなどもセットし終わり、、
「お待たせいたしました。」
と言ってみたが、芳しい反応が無い。
カウンターに戻りながら、せめてコートを脱がせないとあれでは風邪を引くな、などと考えていた。

着替えたユミちゃんが戻ってきたときだった。
「マスター!」
と言っているらしい、ろれつの回らない大声が聞こえた。レインコートが床に落ちるのと、酔
っ払いが立ち上がるのが同時に目に入ってきた。真っ赤な顔が、さらに真っ赤になってこち
らを見ている。
「いつから、ここで、紅茶を出すようになったんだぁ。」
といいながら、テーブルに両手を突いた。弾みでカップが倒れてしまった。
テーブルが紅茶でいっぱいになった。
「ちくしょう、みんなみんなバカにしやがって。」
紅茶に両手を浸しながら、なんだか泣いているようだ。
さめていてよかったな、と余計なことを考えながら、近くに駆け寄っていった。

布巾を持ちながら
「失礼いたしま」
まで言ったところで、その右手をつかまれてしまった。そのまま、目が合うと、さっきまで酔っ
払っていた様子とは一変して、
「マスター、火曜日の日替わりは、コロンビアじゃなかったのか」
とはっきりした口調で私に話しかけてきた。
私は身動きが取れなくなった。
たしかに、そんなころもあった。ずいぶんと昔のことだった。

「ここだけは変わらない、と思って来たのに。みんな変わっちまう。」
つぶやく男の顔を眺めていると、ちらっと頭をよぎるものがあった。
頭をスポーツ刈りに、小太りの体形を痩せさせ、服をジャージに変える。
「マスター、健だよ。忘れた?」
いやいや、覚えてるとも。忘れるものか。

立ち上がると、カウンターにいるユミちゃんに声をかけた。
「すまないけど、そのケトルでお湯を沸かしてくれ。」
私は、健に「待ってろ。」と言い、カウンターに入った。

入れたてのコロンビア・スプレモを健の前に置いた。健は、ユミちゃんが持ってきたタオルを頭に載せている。
「健は、この店の最初の常連だったんだ。あのころは、高校生だったかな。」
と帰りそびれてしまったユミちゃんに説明する。そう、常連だったのだ、最初の。
「日替わりコーヒーのアイデアを考えたのも健だったな。特にコロンビア、すきだったよな。」
健は、ぼそぼそと話し出した。
「高校出て東京へ行って、営業でがんばって、家建てて、課長になって、ぜんぜんこっちにこれなかった。親父たちも兄貴の所に行って、誰もいなくなったし。」
「じゃあ、どうしてここに?」ユミちゃんが素直に聞く。
「栄転だって。故郷に錦を飾れってさ。」
「すごいじゃないか。」と言いながら、私は違うなと感じていた。
「リストラだよ。地方都市の潰れそうな子会社の工場長なんて、栄転じゃなくて左遷だよ。」
健は続ける。
「で、来てみれば、駅前は再開発でビルばっかりだし、工場のあたりも昔の面影なんてあったものじゃない。俺をおいてけぼりにしてバカにするな、って思いながらさっきまで飲んでたんだ。」
健は、コーヒーカップを手に包んで、つぶやいた。
「でも、雨に濡れながら歩いてたら、この店を思い出したんだ。もし、あの時のままのコーヒーが飲めたら、ひょっとしたらやっていけるかもって。」
私が何年かぶりに本気で入れたコーヒーを、健が微笑んで飲むのを見ていた。
「これだよ、これ」
と健。
「マスター、おいしいこれ。これなら、この店・・」言いかけるユミちゃんを目で制して、私は聞いた。
「どうだい、35年ぶりの味は。」
「次は息子をつれてくるよ。今度は、あいつが常連になるかもな。」

店の傘をさして帰っていく健の背中を見ながら、私はつぶやいた。
「店を売るのは、やっぱりやめよう。」
ユミちゃんは、嬉々としてカウンター下からコーヒーの道具を掘り出している。

どうやら、雨も上がりそうだ。


解説は回答に書いたので略。