第一話

 「水野。おい、水野!」と、耳元で呼ぶ声が聞こえた。おれは、ショットバーのカウンターから、ハッとして起き上がった。そして、隣にいる人物の顔を見て、思わず首をひねった。
「なんで、お前がここにいるんだ」。
 そこには、大きなバックパックを担ぎ、擦り切れた服に黒いテンガロンハットをかぶり、真っ黒に日焼けした、ネオン街には似合わない男が立っていた。
「たしか、どこかの遠い村に、今朝飛ぶって言ってなかったか?」、と俺は詰問口調で問いかけた。男は、顔をくしゃくしゃに猿みたいな顔にして笑いながら、
「この間言ってた本、見つかったから。渡してからと思って。」と言った。カバーもないシワシワの小さな本を俺に押し付けると、止める間もなく店から出て行ってしまった。
 「知り合い?」とマスターが聞くので、俺は、
「そう。あいつ、医者なんだ。でも、貧乏でさ。医は仁術とか言って、貧乏人の世話ばっかりしてるんだ。」とつぶやいた。
「それ、何です?」と聞かれ、俺は手元を見た。茶色いしみだらけの本の背には、「緋色の研究」と言う字がかろうじて読みとれた。
「ばかだよな、ずいぶん前にホームズの読んでない本の話をして、持ってないなら貸してくれるって言って、たぶん出発準備をしていたら本棚が目に入って、そういえば貸すとか言ったよなとか思い出して、本棚全部探して、出発時刻過ぎて、部屋の隅っこからやっと見つかって、夜になったけど渡さなきゃと思って、俺が今頃どこにいるかだれかに聞いて、きっと一軒ずつ探してきたんだろう。」俺は、本をカウンターに乗せ、パラパラとめくりながら「帰ってきてからだって、いいのにな」。
「大切だったんですよ、水野さんとの約束が。で、見送らなくていいんですか。」
「いや、追いつかないよ、どうせ。また、しばらくしたら、どこかで会うだろう。」と、残ったジンライムを飲み干して、俺は席を立った。
「どこか」がとんでもない所になるとは、その時俺は、思ってもみなかった。